沼落ちとDDと一年と

かなり遅れた梅雨明けとともにやってきたうだるような暑さに疲弊していると、去年の今頃を思い出す。内定先の弊社のサマーインターンに参加して、グループの仲間と必死に時間外に作業をして、遅くに家に帰り、そして知らなかった世界に心を躍らせてYouTubeを見て、明日のインターンの活力を得ていたなぁ。

 

私がこの沼にやってきてから、私の記憶が正しければ1年が経った。サマーインターンに忙殺されながらShadow kiss、 Vampire kiss とダーリンのMVを繰り返し見ていた記憶があるから間違いないはずだ。そして私の惹かれためせもあ。というグループは、ライブという領域に疎かった私でも名前くらいは知っている、パシフィコ横浜というステージを完売させられる力を持ったグループだということも知った。

 

私の一応の前沼は、slhとアナタシアである。沼落ちの直接の経緯は、SLH目当てで見ていたダーリンに、SLH以外でとんでもなくダンスがうまい人がいる、という衝撃を受けたこと。言わずもがなそれはフォーゲルさんだった。このめせもあ。という人たちは誰なんだ?語感的に「むすめん。」とよく似ているのは気のせいなのか?あとこの間奏部分でキレキレのソロをかましている子の顔に見覚えがあるのはなぜだ?などいろんな疑問は、めせもあ。は昔むすめん。という名前で活動していて、見覚えのある男の子は、あのあおいくんだったことを知って、全部解決した。あのあおいくん…一触即発☆禅ガールでアルスマグナのウィトくんにくるっと回されていたあの少年????大きくなったねぇ…という謎の感動に浸りながら、またこのニコニコ動画にルーツを持つコンテンツにはまった己の不思議な運命を思った。

 

画像フォルダを見返していても、私がめせもあ。の推しを決めるのにたぶん一週間もかかっていなかったことがわかる。あのビジュアルで関西弁をしゃべるなんて反則だろう。それに、その人は人を”イケメン”だと感じるフィルターが大破している私でも、十分に認識できるほど整った顔だった(どれくらいイケメンセンサーが故障しているかというと、私は吉沢亮の顔がイケメンという共通認識がぼんやりとしか理解できない)。しかも、現役社会人とアイドルの二足の草鞋を履く人…これだけあれば十分だった。沼落ち五日後には、私の画像フォルダにFWののっくんのスクショが大量に保存されていた。立派なのっくんのオタクの完成である。

 

しかし、前述したとおり、私の沼落ちの経緯は、ダーリンでフォーゲルさんを見つけてしまったことであり、彼のパフォーマンスが本当に好きで、MVではフォーゲルさんをずっと推しカメラしていたくらいである。フォーゲルさんのダンスは、今まで私がアイドルはこういうダンスをしがち、という固定観念を全部塗り替えてくれた。気持ちのいいくらいに緩急とアクセントの効いたダンス、コンマ何秒も狂わない正確な音はめ、沼落ち初期の私は、完璧なクソゲルのオタクであった。しかもカップリングとしてのクソゲルではない、奇妙なオタクである。

 

余談だが、私はお察しの通り、だれか知り合いに布教されて沼ったタイプの人間ではないのだ。私に何かを布教するのは、たぶんチワワをポメラニアンにするくらい不可能だ。人のはまっているコンテンツを”私”に関連するかもしれないものとして認識できない。それは、たぶんkPopの魅力について半年近く私に語り続けた私の友人が一番よく知っている。

 

さて、めせもあ。からこの界隈に足を踏み入れた私だが、初現場は、意外にもちょこぼの恵比寿リキッドルームである。覚えているのだが、その日はゼミの合宿最終日で、朝食を食べながら、リキッドルームに足を運ぶべきか、否か、ずっと悩んで友人に話していた覚えがある。その時に奇遇なのだが、今はオタクをお休みしているさくちゃんもこの話を聞いていたのだ。奇遇である。結局、行かなければ後悔するだろう、と思い切って、人生で買ったこともなかったペンライトを購入し、うんうん唸りながらちょこぼの公式ブログを読み、どうやら手売りチケットなるものがあると知った。しかし、ちょこぼは、その当時Spare Keyが好きだと気付いたくらいのにわかで、推しは定まっているはずもなく、悩みに悩んでぱんめんの列に並んだのを覚えている。

 その日は、7人体制のちょこぼの初日であり、メンバーの気合の入り方は並みではなかった。当たり前なのだけれど、私は”現場”なるものに足を運んだのは、この日が初めてであり、当然接触に行ったことがない。YouTubeでしか見たことのない、しかも一触即発☆禅ガールのメンバーの中にいた食パンmenとお話をするとは…

 結果から言うと、私は初接触でぱんめんの列に並んだ自分をほめ倒しているし、接触なるものはとても楽しかった。何より、当日のライブにかける並々ならぬ意気込み、そしてその節目を目撃する決意を固めたちょこらぶちゃんたちへの感謝を感じたのだ。

 

 私が今までアイドル界隈に足を踏み入れたことがなかったのは、ファンは金を出す生き物だと思われることが嫌だったからだ。これをやれば、オタクは喜ぶ、そう決まっている、そんな風に足元を見てくるものは、舞台芸術やエンタメと呼びたくない。知り合いの舞台俳優のオタクの先輩は、舞台俳優はファンが嫌いだといっていた。嫌われているとわかっていてなぜ応援するのだ。私はずっとそれが腑に落ちなかった。

 

 でもこの界隈にやってきて、このDDのアーティストは違う気がすると感じた。彼らの言葉は血の通った本物で、それを裏付ける人生経験と苦労があって、オタクが現場に来ることを当たり前だと思っていない。そう思ってオタクと接することに、どれほどの精神力が必要なのだろう。想像すると気が遠くなる。少なくとも、半年持たずに他界する、と友人から予言された私がこの界隈にこんなに長くいる理由の一つも、ここら辺にありそうだ。

 

ちょこぼのリキッドルーム公演がなかったら、私は一生在宅オタクだったろうと思う。

そのくらい、ちょこぼの現場の力は凄まじい。これだけのクオリティのパフォーマンスで生歌なのはおかしい…パフォーマンスの平均値が高すぎるのだ。ライブハウスのライブに足を運んだのも初めてだった私は、すっかりDDのライブにという空間に魅せられてしまった。

 

 DDの初現場はリキッドルームなのだが、私のめせもあ。の初現場は真逆の糸のサンシャインフリーライブである。この日、推ししか見えない、という言葉の意味を身をもって理解した。目がのっくんに吸い寄せられるのだ。なんなんだ、この引力。そしてCDをフラゲしていない私は、初めて聴いたキミラビリンスのイントロの革命のエチュードで卒倒しそうになった。私にとっての因縁の曲。恐ろしい。運命はこんなところまで私に取りすがって離してはくれない。キミラビリンスのイントロと間奏のバロック音楽じみた旋律と、それと完璧に呼応したカノンのフォーメーションを私は一生忘れない。あの時に抱いた感情はもはや陶酔に近かったように思う。ライブって楽しい(語彙力)。

 

 フリーライブの次の日にチェキ会でのっくんに初めましてするとはアホなスケジュールを組んだものである。大概どうでもいいことをしゃべった記憶があるのだが、そのときに持った感想は、「のっくん、実在した」である。感想のレベルが頭が悪い。背中の後ろに回った腕の感触もそうだし、あの一分、のっくんは確かに私と会話をした、という感慨である。”画面の向こうじゃない 君の目の前で 僕らは生きてる”だ。画面越しに見ていた推しと初めましてする感動は一生もののときめきであった。

 

昨日、タイムリーなのだが、大学の友人に、なつみのはまっているアイドルの魅力を一言で教えてくれ、という質問をされた。悩んだ挙句、私にとっての魅力を一言で返した。

 

「推しが、私が何者でどういう言葉を使い、何が好きで、何を思うのか知っているところ。」

 

ずっと、相手が私が何者なのか知らない世界で息をしてきた自分にとって、これが一番大切なことなのかもしれない。

同時に、推しが私が何者たるか知っているということは、すなわちそれは責任である。私が推しにかける言葉に責任が生じている。たまに映画やミュージカルを鑑賞すると改めてそう思う。私は他でもない私として、推しであるあなたに向けて言葉を紡ぐのだ。私が推しへの手紙に必ず本名を併記し、この”なつみ”という名前が本名と同じであるのは、ある種の決意である。私たちオタクを生きている人間として扱ってくれる彼らへの敬意と責任。

 

友人に言われた。「なつみ、DDにはまる前って、何してた?生きてた?」

きっと、この沼にはまって、新しい世界を知ったような気がする。そして、表現者になりたかった私は、”過去”に、”他人”になった。

演出家になりたいと思った。ダンサーになりたかった。表現者になりたい、そう願いながら、結局会社員として生きる選択をしてここに生きている私にとって、ステージで輝く彼らを見ることは、自分の選ばなかった選択肢を”他者”にすることだ。彼らの姿を見るたびに、私はなりたかった自分と距離をとれる気がしている。

しかし、それと同時に、彼らはいまだに私のなりたかった姿である。だからこそ、私は表現者が少しでも生きやすい世界を願っている。それが表現者になりたくて、それを諦めた私の想いである。

 

しかし、私が半年で他界するとの友人の予言はは外れに外れである。当分他界なんてできまい。そう思う今日このごろである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

GALAXY.5という分岐点

 初めましての方は初めまして。cosmic!!寄りのDD箱推しを自認しております、なつみと申します。ちなみに、このDD界隈には、数多なつみさんがいらっしゃるため、某私のフォロワーさんは、私のことを人妻のなつみと命名してくださいました。経緯が気になるかたは直接私までどうぞ←

 

 普段、論文を書いているときと語り口が違うと、非常にソワソワするのと、私の一人語りのブログは私の好きなように書きたいので、ここからは常体にしますね。すみません。

 

 去る6月27日。Mesemoa.全国ツアー、GALAXY.5が公演初日を迎え、その様子が生配信された。私自身、最後にめせもあ。のパフォーマンスを生で観たのは、昨年12月24日のTime Travel 6のファイナル公演だった。それから、諸々あり、推し箱をこずみっくに据える決心をしてから、私がめせもあ。のライブパフォーマンスを観るのは、今回が初めてだったといっても、過言ではない。

 

 長くなっても仕方がないので、感想をつらつらと書いていこうと思う。断っておくが、これ以降の私の見解には、7月2日に友人のとみたけ推しのなつい氏と配信したコラボキャスから得たものも多く含まれており、なつい氏に少なからず影響を受けている。なお、残念ながら文章に全くまとまりはない。

 

  •  GALAXY.5という分岐点

まず、GALAXY.5というツアーそれ自体がエンターテインメントであったということが私の率直な感想である。めせもあ。を知らない人にも一つの作品として楽しんでもらえるのは間違いない。めせもあ。は、むすめん。時代から脈々と続く彼らのストーリーを語ることなしに、パフォーマンスのスキルでより広範な観客を魅了することのできる領域に足を踏み入れたのかもしれない。それは、めせもあ。にとって非常に大きな転換点である。グループとしてのめせもあ。の市場規模が拡大すればするほど、踊ってみた、もしくはニコニコ動画に馴染みのない人も増える。踊ってみたの辿った歴史を知らないファンを、パフォーマンスの完成度で取り込むことができる、それは彼らの目指す武道館の会場の広さを見据えたとき、何よりも彼らの強みになろう。

 しかし、私は、今後のめせもあ。にとって、彼らのヒストリーと距離を置くべき、と主張しているわけではない、と念を押しておきたい。もし、めせもあ。が武道館のステージに立つ日がやってきたら、それはエンターテインメントの歴史に重要な1ページが刻まれる日である。なぜなら、めせもあ。は当初市場規模の拡大を目指して結成されたグループではないから。言ってしまえば、より幅広いファンを獲得するために、緻密なマーケティング戦略とグループ内のスキルのバランスとを鑑みて集められたメンバーではない。しかし、ともに活動するうちに、より広いステージに立つことを夢見て、ほかでもないこのメンバーで武道館を目指すことを決めた。そう、この9人で武道館に立つこと、そのことに意味があると私は思うのである。

 

 GALAXY.5というツアーそれ自体がエンターテインメント、これに関連して私が特に重要であると考えたのは、映像を巧みに使った演出である。この映像は、おがくず氏が作ったそうだ。私個人の意見だが、こういった演出の使用は、”めせもあ。のメンバーを魅せる”演出から、”めせもあ。のメンバーを使って何かを表現する”へのターニングポイントである。投影用の幕を使うことで、事実メンバーの表情は幾分見づらくなるし、サスペンデッドライト(舞台上方から局地的に一点を照らすためのライト)で照らされたメンバー以外は見えないため、”推しカメラ”のしづらい演出である。しかし、この演出は、視覚的にステージそのものを面白くするには効果的である。こういった照明の使い方からも、今回のツアーが重要な分岐点であった、ということができるのかもしれない。

 

  • 天使と悪魔

 てんてん天使から、ココロノ悪魔へのつなぎ、私はここが非常に面白いと思うのだが、ここから私が勝手に読み取ったメッセージは、「天使と悪魔はコインの表と裏」である。天使の終わり掛け、下手袖から登場する悪魔5人組は、後ろ向きのまま天使の振りを少しだけ踊るのだ。ココロノ悪魔冒頭部分を、天使4人組が後ろ向きで踊り、去っていくのも同じである。ここの後ろ向きというのがミソで、同じ振りを反対向きで踊ること、これは天使と悪魔が表裏一体であることを示しているといってもいいのかもしれない。天使が終わると、天使4人組は上手後方に移動するのだが、その間に下手前方に移動する悪魔組と視線がぶつかり合っているように見えるのだ。悪魔と天使はきっと互いの存在を知っている。なつい氏がいうように、ココロノ悪魔は、悪魔になり切れないひと、悪魔に身をゆだねてしまいたいという葛藤なのだとしたら、悪魔になり切れないもう半分の善良で幸せを振りまきたい己が、てんてん天使なのかもしれない。あくまで個人の考察である。

 

・フォーゲルさんの歌唱について

 今回の配信で、私が驚かされたのは、フォーゲルさんの変化である。もっと言えば、彼自身のパフォーマンスに対する自信である。今回、フォーゲルさんの歌唱力に高さに度肝を抜かれたのだが、もっと重要なのは、フォーゲルさん自身が自分の歌に対して、私が前に聴いたときよりも、ずっと誇りとプライドを持っているように見えたのである。パリパリじゃないズ公演で、純情ラベンダーの上ハモを完璧にこなしたり、フォーゲルさんんの高音域の伸びやかさは聴いていて気持ちのいいものがあり、スキルはもう十分にあったと思う。今回の配信で、そのスキルに、フォーゲルさんの自信が追いついたのだろう、私は見ていてそう思ったのだ。

 

  •  ソロ曲について

思うことは非常にたくさんあるのだが、特に語りたいソロ曲パートについて書く。

とみたけさんのソロを見返しながら気づいてしまったのだが、とみたけさんにあてられた惑星は、金星である。ヴィーナス。ギリシャ神話だと愛を司る女神アフロディーテなのだが、そのそばにはいつもエロースが侍る。

 これを考えてみれば、とみたけソロのバックダンサーがmasayaくん1人なのも、ものすごく納得である。これに気づいてしまったら、とみたけさんソロは、もうアフロディーテとエロースにしか見えない。(個人の見解)

 これはなつい氏の持論なのだが、とみたけさんの歌う”愛”は誰か一人に向けられた愛ではなく、遍くすべての人への普遍的な愛であるらしいのだ。考えてみればその通りで、彼のソロ曲のバラードが優しさにあふれているのはきっとそういうことなのだろう。

 

 あおいくんが背負う惑星は火星であり、ギリシャ神話の軍神アレス、ローマ神話マルスに由来するのだが、あおいくんほどこの惑星が似合うひともいないだろう。またなつい氏との話になって恐縮だが、なつい氏は着地!月面ZENBUで地球を蹴る演出が許されるのは今川JAPANだけ、と語っていた。私は、その話を聞いて、脈絡もなく"The world is not enough"というフレーズを思い出したのだ。これは、某映画シリーズのタイトルになったことでも知られるが、もともとは古代ローマ帝国の貨幣にラテン語で刻まれていた文言らしく、世界一つ征服したくらいでは足りない、という古代ローマ帝国の飽くなき征服欲を示したものらしい。(ちょっと記憶があいまいである。神聖ローマ帝国だったか?)

 このフレーズを思い出すくらい、あおいくんのソロは疾走感と熱量にあふれていたと思ったのである。若さ、気概、覚悟、あおいくんのソロを見ていてそれがひしひしと伝わってきたし、バックダンサーを6人引き連れることが許されるのも、おそらく彼だけだろう。

 

 二番煎じのソロを観ていて思うのだが、二番煎じというアイドルは理想のイケメン像の詰め合わせであると同時に、触れたら火傷しそうなのである。入れ込むと泣きをみるタイプだ(個人の見解)。すべては二番煎じの思い通りで、”その瞳エメラルド 単純明快欲しいのさ”と言ったって、もう手に入れる算段は付いていて、まだ手に入らないその時間でさえも彼にとっては遊びなのではないか、と勝手に思わずにはいられない(当社比)。

 

 野崎さんソロは、伝説の食パン弁当だと思っているのだが、このぱんめんの動と野崎さんの静の対比が鮮明すぎて目が潰れる。持論なのだが、ダンスという表現の本質は静と動の対比であって、それを完璧に理解した演目である。ぱんめんはこのソロ曲の中では、野崎さんとの距離の取り方といい、完璧に犬である。それをビシバシ打ち据える野崎さんという構図…あれ、これ全年齢対象だったかな…

 

 なつい氏との話にも少し出たのだが、白服さんソロ曲、ハネムーンロケットには、白い服を君と、との共通点がかなりある。ハネムーンというタイトル。白い服を君と、といい、白服さんソロ曲は、必ず、”君”を一生幸せにしたいようだ。アイドル像的な意味で言えば、白服さんは二番煎じとかなり対照的なような気がする。

 

 ソロ曲前のMCでも突っ込まれたりしていたが、惑星の地球がなく、衛星の月が入っている。これは、そもそも地球との関係性に基づいているのでは、と個人的に思うのである。基準となる視点は地球にある。だから月も入ってくる。さらにいうなれば、地球はイルミィにあてられた惑星、ということも十分に可能である。

 

 

 ここまで長々とまとまりなく語ってしまい、非常に恐縮である。

 このツアーが、観客を動員できる形で開催できていたら、どれほど多くの人にめせもあ。の名前が知られることになっていただろうと、無念である。それでもありがたいことに、めせもあ。をはじめ、DDは私たちに日々至上のエンターテインメントを届けてくれている。そんな彼らがより生きやすい世界を望むばかりである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

表現者としての菊池時長について

 はじめまして。cosmic‼︎寄りのDD箱推し、なつみと申します。こずみっくの推しは、うみきくでございます。どちらも推しに対する熱量、愛情量は50:50なんですが、今日は私がMPになったきっかけでもある、きくちさんについて書こうかと思っています。

 まず、このブログのタイトルの通り、きくちょーというアイドルの表現力についてこの記事では書こうと思っているので、きくちさんについて一般的かつ入門的な知識を獲得せんとしている方には、少々的外れになる可能性を事前にお断りさせていただきたいと思います。

 私は、きくちさんの表現者としてのポテンシャルに惹かれてきくち推しMPになりました。同時に、彼のシェアハウスの住人であるうみねこと関係性の崇高さに触発され、うみきく推しMPになり、今に至ったわけです。こういった経緯があるので、今回はきくちさんの表現力について書こうと思うわけです。

 今回は、主に3つの楽曲から表現者としてのきくちさんについてご紹介したいと思います。

1曲目は、庭の樹。オリジナルはMeseMoa.の楽曲をcosmic‼︎がカバーしたもので、2019年8月のDDDPにて披露されました。2曲目はニア。つるてぃーさんと2人での踊ってみた動画で、定期公演でも何度か披露したそう。そして3曲目はハイドアンドシーク。これはcosmic‼︎東名阪ツアー、冒険〜Let’s go to the ダンジョン〜の愛知公演の2部のきくちさんソロで披露された演目です。

 1曲目の庭の樹について、私のお気に入りの部分のスクリーンショットと共にご覧頂きたいと思います。

ピントが他メンバーに合っているのに、きくちさんについて解説するということには、目を瞑って頂けると助かります…


【cosmic!! - 庭の樹 (MeseMoa.) 】 DD Dance Party2019より

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まず1枚目。2Aメロの「最後まで寄り添ってくれるかい」の部分です。

ご覧下さい。この表情と爪の先まで統制された指先の美しさ。人生というものの有限性をここまで雄弁に物語る表情はきっとない。

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2枚目。落ちサビの前、とみーさんの台詞の「綺麗だった。そう、綺麗だった。」の部分です。

伸ばされた腕が徐々に降ろされていく振りなんですが、この部分は、掴もうと手を伸ばしても掴めない、そして掴めなかったそれを繋ぎ止めることは、きっと未来永劫にできない。そんな儚さを秘めた指先までの美しさなんです。


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そして3枚目。最後の「もう二度と」の部分です。

私はここのきくちさんほど、世界で美しいものを知らない。永遠に失われてしまった「君」とは、もう二度と同じ時を過ごすことはできない。そんな残酷な現実を理解はしている。でもまだ納得はできない。まだほんのわずかな希望に縋って手を差し出す。仮にもし、ここで曲が終わらないなら、次の瞬間のきくちさんはきっと受け入れ難い現実を突きつけられて涙を流しているに違いない。そんな表情だと勝手に思っているんです。

 

私は、正直歌詞厨でも解釈厨でもありません。それでも、こんな私に込められた意図を読み取らんとさせる、そこから端を発して曲全体の解釈をしようとさせる。それはきくちさんのパフォーマンスが持つ一種の魔力、重力、言ってみればある種の強制力ですらあるのです。

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おまけ。間奏のセリフ部分です。こういうエモーショナルな曲で感情が高まると、きくちさんは眉が少しハの字になるんです。

余談になります。わたしは少しだけ演劇と演出をしていた時期がありました。そこで気づいたことは、人がある瞬間に抱く感情が喜怒哀楽のいずれか単一であることは実際は有り得ない、という考えてみれば極めて当たり前の事でした。さらにいうならば、この喜怒哀楽という4つの要素も非常にわかりやすく単純化されたものであって、実際の感情はグラデーションのように多様なのです。

何が言いたいかと申しますと、きくちさんは感情の多様性を捨象せずに取り出し、表現することに非常に長けているのです。これは、感受性の極めて豊かな人にしかできないことだと私は信じています。

 

長くなりました。

2曲目のニアについてです。


【つるきく】ニアを踊ってみた【cosmic!!】

特に、私はニアの落ちサビの少し前からがお気に入りなので、それ以降に焦点を絞ろうかと思っています。

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1枚目。「キミが居るこの地球を忘れたくはないんだよ」の部分。

ご覧になって下さい。この悲痛な訴えかけるような表情。大切なものに気づくのはいつだって失った後。そんな普遍的真理をこの一瞬で物語れるのは、きっときくちさんだけ。表情に込められた情報量が多い。

 

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2枚目。

アウトロの部分。

この美しい指先。もうつるてぃーさんと一緒にいられる時間が長くはないことに気づいている。去ろうとするつるてぃーさんを留めたいけれど、きっと意味のないことだとわかっているんです。隣にいるつるてぃーさんがいずれ消える幻影だということも。

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最後の少し前の後ろ姿。後ろ姿がこんなに雄弁に語ることってあったんですね。初めて感じたかもしれない。

 

ニアは、私は個人的に、人間が生まれてから感情を獲得し、初めて得た大切な人を失うまでの過程(それはいってみれば半生そのものですが)、それをテープを早回しするように観せられている、と思っています。ぜひ何度も観ていただきたいです。

 

3曲目。ハイドアンドシークについて。

この曲は、私が解釈を先に語ってしまうことが少し憚られます。それは、きくちさんがハイドアンドシークを踊ってみた動画にするご予定だから、ということもあります。ですので、控えめに要点だけ語るとするならば、こうです。

きくちさんのハイドアンドシークは、愛されたいという欲求が、愛したいという思いやりに変化する過程です。少なくとも、私はきくちさんのソロを観て、そう思いました。これ以上語ると、この記事を読んでくださっている方々が、新鮮な気持ちできくちさんのハイドアンドシークを観れなくなる気がするので、ここら辺で留めておきたいと思います。

 

大分長くなってしまいました。

3曲を通してきくちさんの表現者としての魅力について、言葉足らずながらご紹介させて頂きました。この記事を読んでくださった方が、きくちさんとcosmic‼︎に興味を持って頂けたら、とても嬉しいです。

また気が向いたらブログ更新しようかと思っています。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました!!!!