GALAXY.5という分岐点

 初めましての方は初めまして。cosmic!!寄りのDD箱推しを自認しております、なつみと申します。ちなみに、このDD界隈には、数多なつみさんがいらっしゃるため、某私のフォロワーさんは、私のことを人妻のなつみと命名してくださいました。経緯が気になるかたは直接私までどうぞ←

 

 普段、論文を書いているときと語り口が違うと、非常にソワソワするのと、私の一人語りのブログは私の好きなように書きたいので、ここからは常体にしますね。すみません。

 

 去る6月27日。Mesemoa.全国ツアー、GALAXY.5が公演初日を迎え、その様子が生配信された。私自身、最後にめせもあ。のパフォーマンスを生で観たのは、昨年12月24日のTime Travel 6のファイナル公演だった。それから、諸々あり、推し箱をこずみっくに据える決心をしてから、私がめせもあ。のライブパフォーマンスを観るのは、今回が初めてだったといっても、過言ではない。

 

 長くなっても仕方がないので、感想をつらつらと書いていこうと思う。断っておくが、これ以降の私の見解には、7月2日に友人のとみたけ推しのなつい氏と配信したコラボキャスから得たものも多く含まれており、なつい氏に少なからず影響を受けている。なお、残念ながら文章に全くまとまりはない。

 

  •  GALAXY.5という分岐点

まず、GALAXY.5というツアーそれ自体がエンターテインメントであったということが私の率直な感想である。めせもあ。を知らない人にも一つの作品として楽しんでもらえるのは間違いない。めせもあ。は、むすめん。時代から脈々と続く彼らのストーリーを語ることなしに、パフォーマンスのスキルでより広範な観客を魅了することのできる領域に足を踏み入れたのかもしれない。それは、めせもあ。にとって非常に大きな転換点である。グループとしてのめせもあ。の市場規模が拡大すればするほど、踊ってみた、もしくはニコニコ動画に馴染みのない人も増える。踊ってみたの辿った歴史を知らないファンを、パフォーマンスの完成度で取り込むことができる、それは彼らの目指す武道館の会場の広さを見据えたとき、何よりも彼らの強みになろう。

 しかし、私は、今後のめせもあ。にとって、彼らのヒストリーと距離を置くべき、と主張しているわけではない、と念を押しておきたい。もし、めせもあ。が武道館のステージに立つ日がやってきたら、それはエンターテインメントの歴史に重要な1ページが刻まれる日である。なぜなら、めせもあ。は当初市場規模の拡大を目指して結成されたグループではないから。言ってしまえば、より幅広いファンを獲得するために、緻密なマーケティング戦略とグループ内のスキルのバランスとを鑑みて集められたメンバーではない。しかし、ともに活動するうちに、より広いステージに立つことを夢見て、ほかでもないこのメンバーで武道館を目指すことを決めた。そう、この9人で武道館に立つこと、そのことに意味があると私は思うのである。

 

 GALAXY.5というツアーそれ自体がエンターテインメント、これに関連して私が特に重要であると考えたのは、映像を巧みに使った演出である。この映像は、おがくず氏が作ったそうだ。私個人の意見だが、こういった演出の使用は、”めせもあ。のメンバーを魅せる”演出から、”めせもあ。のメンバーを使って何かを表現する”へのターニングポイントである。投影用の幕を使うことで、事実メンバーの表情は幾分見づらくなるし、サスペンデッドライト(舞台上方から局地的に一点を照らすためのライト)で照らされたメンバー以外は見えないため、”推しカメラ”のしづらい演出である。しかし、この演出は、視覚的にステージそのものを面白くするには効果的である。こういった照明の使い方からも、今回のツアーが重要な分岐点であった、ということができるのかもしれない。

 

  • 天使と悪魔

 てんてん天使から、ココロノ悪魔へのつなぎ、私はここが非常に面白いと思うのだが、ここから私が勝手に読み取ったメッセージは、「天使と悪魔はコインの表と裏」である。天使の終わり掛け、下手袖から登場する悪魔5人組は、後ろ向きのまま天使の振りを少しだけ踊るのだ。ココロノ悪魔冒頭部分を、天使4人組が後ろ向きで踊り、去っていくのも同じである。ここの後ろ向きというのがミソで、同じ振りを反対向きで踊ること、これは天使と悪魔が表裏一体であることを示しているといってもいいのかもしれない。天使が終わると、天使4人組は上手後方に移動するのだが、その間に下手前方に移動する悪魔組と視線がぶつかり合っているように見えるのだ。悪魔と天使はきっと互いの存在を知っている。なつい氏がいうように、ココロノ悪魔は、悪魔になり切れないひと、悪魔に身をゆだねてしまいたいという葛藤なのだとしたら、悪魔になり切れないもう半分の善良で幸せを振りまきたい己が、てんてん天使なのかもしれない。あくまで個人の考察である。

 

・フォーゲルさんの歌唱について

 今回の配信で、私が驚かされたのは、フォーゲルさんの変化である。もっと言えば、彼自身のパフォーマンスに対する自信である。今回、フォーゲルさんの歌唱力に高さに度肝を抜かれたのだが、もっと重要なのは、フォーゲルさん自身が自分の歌に対して、私が前に聴いたときよりも、ずっと誇りとプライドを持っているように見えたのである。パリパリじゃないズ公演で、純情ラベンダーの上ハモを完璧にこなしたり、フォーゲルさんんの高音域の伸びやかさは聴いていて気持ちのいいものがあり、スキルはもう十分にあったと思う。今回の配信で、そのスキルに、フォーゲルさんの自信が追いついたのだろう、私は見ていてそう思ったのだ。

 

  •  ソロ曲について

思うことは非常にたくさんあるのだが、特に語りたいソロ曲パートについて書く。

とみたけさんのソロを見返しながら気づいてしまったのだが、とみたけさんにあてられた惑星は、金星である。ヴィーナス。ギリシャ神話だと愛を司る女神アフロディーテなのだが、そのそばにはいつもエロースが侍る。

 これを考えてみれば、とみたけソロのバックダンサーがmasayaくん1人なのも、ものすごく納得である。これに気づいてしまったら、とみたけさんソロは、もうアフロディーテとエロースにしか見えない。(個人の見解)

 これはなつい氏の持論なのだが、とみたけさんの歌う”愛”は誰か一人に向けられた愛ではなく、遍くすべての人への普遍的な愛であるらしいのだ。考えてみればその通りで、彼のソロ曲のバラードが優しさにあふれているのはきっとそういうことなのだろう。

 

 あおいくんが背負う惑星は火星であり、ギリシャ神話の軍神アレス、ローマ神話マルスに由来するのだが、あおいくんほどこの惑星が似合うひともいないだろう。またなつい氏との話になって恐縮だが、なつい氏は着地!月面ZENBUで地球を蹴る演出が許されるのは今川JAPANだけ、と語っていた。私は、その話を聞いて、脈絡もなく"The world is not enough"というフレーズを思い出したのだ。これは、某映画シリーズのタイトルになったことでも知られるが、もともとは古代ローマ帝国の貨幣にラテン語で刻まれていた文言らしく、世界一つ征服したくらいでは足りない、という古代ローマ帝国の飽くなき征服欲を示したものらしい。(ちょっと記憶があいまいである。神聖ローマ帝国だったか?)

 このフレーズを思い出すくらい、あおいくんのソロは疾走感と熱量にあふれていたと思ったのである。若さ、気概、覚悟、あおいくんのソロを見ていてそれがひしひしと伝わってきたし、バックダンサーを6人引き連れることが許されるのも、おそらく彼だけだろう。

 

 二番煎じのソロを観ていて思うのだが、二番煎じというアイドルは理想のイケメン像の詰め合わせであると同時に、触れたら火傷しそうなのである。入れ込むと泣きをみるタイプだ(個人の見解)。すべては二番煎じの思い通りで、”その瞳エメラルド 単純明快欲しいのさ”と言ったって、もう手に入れる算段は付いていて、まだ手に入らないその時間でさえも彼にとっては遊びなのではないか、と勝手に思わずにはいられない(当社比)。

 

 野崎さんソロは、伝説の食パン弁当だと思っているのだが、このぱんめんの動と野崎さんの静の対比が鮮明すぎて目が潰れる。持論なのだが、ダンスという表現の本質は静と動の対比であって、それを完璧に理解した演目である。ぱんめんはこのソロ曲の中では、野崎さんとの距離の取り方といい、完璧に犬である。それをビシバシ打ち据える野崎さんという構図…あれ、これ全年齢対象だったかな…

 

 なつい氏との話にも少し出たのだが、白服さんソロ曲、ハネムーンロケットには、白い服を君と、との共通点がかなりある。ハネムーンというタイトル。白い服を君と、といい、白服さんソロ曲は、必ず、”君”を一生幸せにしたいようだ。アイドル像的な意味で言えば、白服さんは二番煎じとかなり対照的なような気がする。

 

 ソロ曲前のMCでも突っ込まれたりしていたが、惑星の地球がなく、衛星の月が入っている。これは、そもそも地球との関係性に基づいているのでは、と個人的に思うのである。基準となる視点は地球にある。だから月も入ってくる。さらにいうなれば、地球はイルミィにあてられた惑星、ということも十分に可能である。

 

 

 ここまで長々とまとまりなく語ってしまい、非常に恐縮である。

 このツアーが、観客を動員できる形で開催できていたら、どれほど多くの人にめせもあ。の名前が知られることになっていただろうと、無念である。それでもありがたいことに、めせもあ。をはじめ、DDは私たちに日々至上のエンターテインメントを届けてくれている。そんな彼らがより生きやすい世界を望むばかりである。